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やつはメールマガジン Vol.496
発行者:やつは代表 滝沢泰平
( 令和2年07月13日 号 )
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今日のお知らせ(NEWS)
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当たり前の明日はない
今できることは何か
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今日は東京方面で告別式。
明後日もまた、今度は八ヶ岳で葬儀。
前回のメルマガでもお伝えしましたが、
本当に最近は亡くなる方が身の回りでも非常に多いタイミングです。
自分自身、こういった立場柄か、顔見知りもあちこちに多く、
それだけに良いニュースも悪いニュースも日々たくさん入ってきます。
「あの人結婚したみたい」
「あそこにお子さん生まれたんだよ」
「あの人離婚したんだよ」
「あの方亡くなったんだよ」
特に、昨年から今年にかけては、よく知った間柄の人が
この世を去るケースが続いております。
告別式、お葬式。
こんなことを言ったら故人には怒られますが、
個人的は子供の頃からとっても苦手な場。
子供の頃は、よく状況が分からずに、つまらないというのが正直な気持ちだったかもしれませんが、
大人になっても、やはり葬儀の場の何とも重いムード、悲しみに包まれた空間が苦しくて。
でも、こんな葬儀が良い悪いはなく、あくまでも主観ですが、
個人的には一般的なお葬式はやりたくないという気持ちはあります。
病院のベッドで最後を迎えることはしたくなく、自宅も良いですが、
本当は山の中とか、どこか大好きな森の中に入って、そのまま自然の中で朽ちていきたい気持ちはあります。
土葬ができないルールがありますが、せっかくなら土に還りたいし、
土に還るのにふさわしい肉体となるように、この借り物の肉体も日々大切にしたいと思っております。
防腐剤だらけ、ケミカルまみれの肉体となって、火葬するにも、土葬しようにも、
地球にとって有害な肉体となって最後まで負担をかけるのは、この地球で生まれた生命体として不甲斐ないと。
しっかり、この借り物の肉体に敬意を持ち、最後の最後まで使い切り、
そして気持ちよく脱ぎ去ることも、個人的な大事な目標。
そして、葬儀に立ち合い、いつも思うことは
「遅かれ早かれ」
という一言。
今は故人を送り出す立場ですが、
いつ自分が逆の立場となるかは、誰においてもわからないこと。
みんなやがて遅かれ早かれ同じ世界へ旅立ちます。
大いなる源、大元へと還ります。
亡くなることが、可哀想、運が悪いと思うなら、
みんな可哀想で運が悪い存在。
もちろん、そんなことはなく、どんな人でも時が来れば
次のステージへの旅立ちはやってくるもの。
今はまだ物質中心の価値観の世界にいるから、
見えない世界のこと、死後の世界のことへの捉え方は人それぞれ。
だから、どのお葬式に出ても、そこに集う人々の「死」への捉え方は、千差万別。
頭では魂は永遠と思っていながらも、
やはり別れは辛く、嘆き悲しむ人。
魂も生まれ変わりもなく、
もの抜け殻となった故人と永遠の別れに絶望する人。
信仰の中、あの世の存在、魂の存在を信じ、
穏やかに送り出す人。
どの想いも良し悪しもなく、人それぞれであり、
だからこそ葬儀の場はカオスのエネルギーに渦巻いています。
いつも思うのが、宗教や信仰も超え、
そこへ集う皆が、自然と生と死について、同じ価値観を共有している中で逝けたら幸せだなと。
死の縁に瀕した際、周囲にいるメンバー全員が、同じ感覚で、あの世とこの世の仕組みを頭ではなく、魂から理解しており、
いかに死というものが、尊く、美しく、そして神聖なものであるかを知っているか。
誰も気を動転することなく、穏やかに笑顔で次のステージへ送り出してもらえたら、
個人的にはとっても楽しい卒業式、出発の門出を迎えられて嬉しいなと思います。
その後の葬儀があるなら、せっかくならお祭りで。
もちろん霊体として本人も参加して楽しみます。
今の社会の枠組みの中では、こんな集合意識のメンバーに中に囲まれて最期を迎えるのは難しかもしれませんが、
コミュニティの中であれば、これは決して不可能ではなく、十分に実現できること。
どんな意識を持った人々に日々囲まれ、
最期にどんな意識を持った人々の中で逝きたいか?
というのは、人生においてとても重要な部分だと思っております。
「終わりよければすべてよし」
ということわざは、人生そのものにも言えることでもあり、
思っている以上に最期を迎える瞬間の意識エネルギーというのは大きなもの。
試練や苦難の人生だったとしても、最後の最後がとっても幸せで終えられたら、
きっと過去もすべてオールOK、穏やかなエネルギー磁場のもと、次なるステージへ進める気がします。
その逆、どんなに豊かに思えた人生を送ったとしても、
最後の最後にわだかまりがあって、未練を残して旅立つと、そのエネルギーの滞りは、
その場にも、残された人々にも残るもの。
魂もまた、来世に余計な課題や宿題を持ち込むことも。
今後、コミュニティを構築する場合は、どのメンバーにおいても、
晩年において、それぞれにとって穏やかで豊かに過ごせるように意識して運営していきたいと思っています。
おそらく、縄文人など、古代の人々は、今とは死や生に対する価値観は、まったく違ったものだったと思います。
死はもっと生活に身近なものであったでしょうし、死はもっと尊く、神聖で高次の世界と繋がる重要なもの。
物質文明が進み、精神文明が退化する中で、出生も死も、すべて生活の中から切り離されてしまったように思えます。
病院で生まれ、病院で死ぬ。
それが悪いわけではありませんが、それが当たり前となってしまった社会にも違和感を感じます。
・・・・・
死生観は、子供の頃からずっと考えていたことなので、語り出したらキリがありません。
ただ、肉体は借り物。
借り物だから好き勝手に使って、ボロボロにしてポイっというのは何か違います。
無限の魂だからこそ、有限の肉体、限られた時間しか滞在できない、この世界は重要な場所です。
悟りを開きたい、アセンションしたいと焦っている人もいますが、
亡くなれば、一瞬ですべてわかると思います。
せっかく、この有限の世界に来ているのに、無限の世界を追い求めても、
魂が望む真理に到達するのは難しいでしょうし、目の前にある大切な現実が瞬間瞬間に過ぎ去ってしまいます。
「なぜ、すぐに行動して次々形にできるのですか?」
「年齢の割に落ち着いている(おじいさんっぽい?)のはどうしてですか?」
自分では普通に過ごしていても、そう聞かれることも多いですが、おそらく1つの理由に
「いつ死んでも良いように日々生きているから」
というのが1つの答え。
自分の中には、あまり普段から迷いや後悔というのはありません。
やりたいのにやらない。
できるのにやらない。
そうして1日1日を無駄に過ごすことなど考えられず、
やりたければすぐやる、できるにはどうすれば良いかしか考えない。
それは
「当たり前に明日が来る」
とは思っておらず、
いつこの世をさっても、自分らしく生きたことを誇りに持ちたいから。
世界を平和にするとか、こんな実績を残したいなどの野望もなく、
小さくても良いから、今日やりたかったことを今日やり切れたら、
それだけで自分は幸せであり、本気でいつ死んでも良いと思って常日頃生きています。
だからと言って、やりたいことをやるために
仕事を辞める、離婚する、家出するとか、
そんなことを推奨しているのではなく、行動よりもあり方、
どんな環境にいても、その中で自分の人生を生かすも殺すも自分次第。
本当は平凡なんてないし、平凡と思われるサラリーマン生活でも、主婦生活でも、
自分が自分を生かしていれば、毎日は充実し、生きた証を保ち続けることができると思います。
例え牢獄の中でも・・・。
今から6年前、自分にとっても多くの試練を乗り越える時に作ったエッセイは
「タイマー」
というもの。
今も、このスタンスは変わりありません。
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タイマー
————————-「生きていること」を100%保障されているのは“今”しかなく、未来に100%保障されているのは「死ぬこと」しかない。
人間誰しも皆、死亡率は100%。遅いか早いかの違いだけ。
明日が必ずあるのを保障されている人もいないし、明日どころか1時間、1分先に生きていることを保障されている人もいない。
どんなに元気でも、今、目の前にいる大切な人が、50年、30年、10年先さえも、生きている保障などどこにもない。
皆が誰しも自分で時間を設定した、目に見えない“タイマー”を持っており、ウルトラマンと同じで、タイマーがなって時間切れとなったら元の世界に帰らないといけない。
もしも、急にそのタイマーが見えるようになったら、皆どう変わるだろうか?
今、身近に当たり前に側にいる人のタイマーを見たら、残り時間が1ヶ月だった場合、その相手と、残りの1ヶ月間を今までと同じように接して過ごすことができるだろうか?
きっと、どんなに嫌いで憎い相手でも、その相手が愛おしくなり、きっと何でも許せるようになるだろう。
今まで空気のように当たり前過ぎて見えなかった相手のことが、はっきりと見えるようになるかもしれない。
「最初から残り時間が分かっていたなら、もっと毎日優しく大切にしていたのに・・・」
と過ぎ去った日を後悔しても時は遅い。
でも、本来は残り時間も関係なく、タイマーがあることにさえ気づけば、人は誰にでもいつだって優しく向き合えるもの。
そして自分にもタイマーがあることを本気で自覚した時、人は真剣に今を全力で生きるようになる。
誰でもウルトラマンのようになれる。
タイマーがあることを知ったら、今度やればいいや、明日やればいいやと、そんな悠長なことを言ってられない。
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間違いなく、自分にも、そして誰にもタイマーはあります。
「今晩が最後の睡眠です。今日でこの世とお別れです」
そんな宣告を受けて、何も悔いなく眠りにつけますか?
10年後に目標にしていたことなんてもってのほか、
明日にしかできないことも、もうできません。
人は今できることしかできないのに、
今できることを本気でやっている人はどれだけいるのでしょうか。
今日しか生きられないのであれば、
明日に来るかもしれない地震、
10年後の経済危機などどうでも良いことに感じるかもしれません。
「いや、せめて残された家族や子供たちが・・・」
自分自身が残された家族や子供の立場なら、
そんな残された人々への心配や執着を持って旅立って欲しくはなく、
ただ自分の幸せだけを持って旅立って欲しいと願います。
未来に恐怖や不安を思っていても、
瞬間瞬間、残酷なほど淡々と時間は過ぎていきます。
誰かや何かに憎しみや怒りを思い続けていても、
時間は何も気にせず時を刻みます。
自分の人生の1秒1秒を分解したら、
トータルでどんな想いの円グラフの分布で生きているでしょうか。
喜怒哀楽は瞬間瞬間に必要としてあっても、
トータルで怒哀が過半数以上だと、ちょっともったいないですね。
余計なものは、必要以上に持つ必要もないので、
用が済んだら、なんでも手放すことは必要です。
身の回りのものも、自分の心も、なるべく余計なものは手放し、
スッキリしておくと、いざという時にも心置きなく旅に出られますね。
すべての故人のご冥福と、残されたすべての個人(いのち)が光り輝き、
望んだ使命を果たすことを心よりお祈りいたします。